美術の可能性・美術館の可能性 |
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1960年群馬県生。美術評論家 いま、美術があまりにも情報として語られすぎている。本来、芸術体験とはそうではない。 ところが、いわゆる現代美術の世界が今、「制度」になっちゃっている。 昔の読売アンデパンダン展では、アバンギャルド芸術の隣に日曜画家の絵が出ていたとか、いい意味で並存があったけど、今はそれが崩れている。 今、一番感じていることは、結局、美術ってのは誰のため、何のためにあるのかとか、美術ってのはどういうものなのか、制度とコンテクトだけで考えていいのかと、そういう根本的なことを考えてみたい。 情報社会の中では出会いにヒエラルキーが生まれる。それを崩していく方がいい。 批評家自身もクリエイティブになっていかなきゃいけないし、普通の人の言葉で素直に表現する文体をもっていないと、これからダメなんじゃないか。それから、ジャンルを飛び超えた視点を持っておかないといけない。 |
大阪市生。美術作家 日本の美術館は、案外、欧米と比べて予算も人手も多い。国や企業の美術家に対する補助は少ないが、基本的に反社会的な美術の自立性を考えるとそれもまたいい。 やりたいと思うことは、たいていやってはいけないこと。そこは知恵──ある種のトンチは笑って許される場合もある。例えば僕は、狭いので常設展示できない原美術館で、トイレならというので常設展示したことがある。 生き延びるために世界と闘わなければならない状況がある。 ヘンな美術館が日本は多い。常識的には作品展示にふさわしい空間をつくるが、日本では好き勝手にやっている。 東京都現代美術館の展示室は天井高8mくらいあって、「これでも展示できるかね、キミ?」と言われているよう。そこまで言われると、作家としても「じゃあ、してやろうやないか」と、割合納得がいく。 本来は、美術館も表現の場の1つにすぎない。
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1948年山梨県生。山本育夫事務所主宰 僕は「固有名詞性」を重視し、日本のミュージアムを実際に見て、そこで出会った出来事や人々の姿をドキュメントしたいと考えて『DOMEを始めた。 そして感じたことは、この国の美術や美術館の問題は、50年、100年のスパンで考えた方がいいということ。 日本の美術館は展覧会主義で、作品をぐるぐると流し続けているが、そろそろ1人ひとりがじっくりと作品と向かい合える時間をつくっていくことも大事。 建築家が自分の考えで美術館をつくると、学芸員から不平が出るが、逆に学芸員が建物に合わせた展示を考えることも起こる。 最近は、企画の理念をはっきりと打ち出す学芸員も出てきた。抑圧すれば反乱も起こるから、当然作家も主張し、学芸員と作家がキャッチボールを始める。 常に新鮮な美術を紹介し続けることも美術館の役割だが、批評を介在させないでドキュメントに徹して作品を保存・伝達することの方がすごいかもしれないという思う。アートは生き物だから、時代によって生き返ったり、また死んだりする。 |
1935年芦屋市生。建築家・近畿大学教授、AZ環境計画研究所主宰 建築もそうだが、情報のシステムが整理してしまっている。例えば、建築では写真とか視覚的な情報だけにとらわれて、人的な全体験が欠けている。 最近話題の奈義町現代美術館にオープンの時に見に行ったけれど、町の方は、中身も現代美術に近しい人への接し方も、かなり戸惑っておられた。 |
(概要文責 編集部) |